日本経済の流れと仕事観の変化
いい大学に行って、いい会社や官庁に入ればそれで安心、という時代が終わろうとしています。
それでも、多くの学校の先生や親は「勉強していい学校に行き、いい会社に入りなさい」と言うと思います。
勉強していい学校に行き、いい会社に入っても安心なんかできないのに、どうして多くの教師や親がそういうことを言うのでしょうか。
それは、多くの教師や親が、どう生きればいいのかを知らないからです。
勉強していい学校に行き、いい会社に入るという生き方がすべてだったので、そのほかの生き方がわからないのです。
村上龍 『13歳のハローワーク』(幻冬舎) ⇒ 新 13歳のハローワーク
ここでは、戦後からバブル崩壊を経て、2000年代初頭までの日本経済の流れと、それに伴う仕事観の変化を追ってみたいと思います。
薬剤師にはあまり関係のない話なのに、かなり長文になってしまいました。面倒な方はどうぞ飛ばしてください。
しかし、医療のあり方は日本経済と深く関わっていると思います。日本経済が右肩上がりだった時代は医療財源も潤沢でしたし、薬を売れば売るほど病院と薬局が儲かる時代がありました。
それが処方せん医薬品の過剰投与と、それに伴う薬物乱用につながってしまったことは、非常に残念ではあります。また、薬の番人としてそれを阻止できなかった、薬剤師の職能のあり方にも問題があったと思います。
戦後復興期
1945年8月15日、日本は第二次世界大戦に敗戦しました。
戦地に赴いた男たちの大半が戦死し、沖縄戦でも多くの民間人が犠牲になりました。東京や名古屋など主要な都市は焼けつくされ、日本は世界の中で最貧国になり下がりました。
数えきれないほどの犠牲を経て、文字通りゼロベースからの復興をスタートしたのです。
しかし、日本はたった10年で、国民所得が第二次世界大戦前の最高水準である1940年レベルに達するまでの復興を遂げることができました。
これは脅威的な速度であったと言われています。
朝鮮戦争による特需景気(朝鮮特需)が戦後復興のきっかけになったと言われていますが、当時の日本人の勤勉さと血の滲むような努力が、日本経済復活の礎となったのではないでしょうか。
この頃、重工業、農業など日本再建の基板となる仕事を支えたのは、戦地から帰国した男達でした。しかし、大正生まれの男達の多くは戦死していたため、会社の先頭に立ったのは、20代〜30代の若者でした。
私達の祖父母世代は、どんな気持ちで働いていたのでしょうか。
戦前、栄華を誇った大都市は焼けつくされ、バラックが立ち並び、路上には傷痍軍人が溢れていました。仕事を見つけなければ今日の食べ物にありつくことができない。そんな極貧の中で生き抜かなければなりませんでした。
なりふりかまわず、目の前の仕事に飛びついていたのでしょう。
しかし、もう空襲に怯えることはない。少なくとも、戦争で死ぬことはないわけです。
敗戦という絶望の中でもわずかな希望をもって、毎日を生きていました。
高度経済成長期
日本経済が飛躍的に成長を遂げた1954年12月〜1973年11月までは、高度経済成長期と言われています。
文字通り驚異的な成長率で、1955年から1973年の間は年平均10%以上の経済成長を達成することができました。
この経済成長の要因は
- 高い教育水準を背景に良質で安い労働力
- 第二次世界大戦前より軍需生産のための官民一体となり発達した技術力
- 余剰農業労働力の活用
- 高い貯蓄率(投資の源泉)
- 輸出に有利な円安相場(固定相場制1ドル=360円)
- 消費意欲の拡大
- 安価な石油
- 安定した投資資金を融通する間接金融の護送船団方式
- 管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画
- 政府の設備投資促進策による工業用地などの造成
などが挙げられます。
また1964年の東京オリンピック、1970年に開催された大阪万博などの特需もあり、1968年には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜き第2位に。東海道新幹線や東名高速道路といった高速交通網も整備されていきました。
戦後、なにもない焼け野原から世界第2位の経済大国まで上り詰めたというのは世界でも例がなく、戦後復興期から続く一連の経済成長は「東洋の奇跡(Japanese miracle)」と言われました。
この頃の日本人は、「働けばより豊かになれる」と信じ、労働に励んでしました。そして信ずる通り、日本経済は右肩上がりに成長していきました。
「もはや戦後ではない」という懸念は案ずるまでもなく、戦後復興期以降もさらに経済成長は加速していったのです。
三種の神器と呼ばれたテレビ・洗濯機・冷蔵庫なども急速に一般家庭に普及し、誰もが豊かさを享受できる時代がやってきたのです。
映画「三丁目の夕日」のように、日本は夢と希望に溢れていました。
当時の風潮としては「大きいことは良いことだ」が流行語となり、「巨人・大鵬・卵焼き」に象徴されるように、日本人は物質的欲求をどんどん開放していきました。
「団塊の世代(1947〜1949年年のベビーブーム時代に生まれた世代)」と呼ばれる人達が、ちょうど社会人をスタートしたのがこの時期です。
私の親世代に当時の話を聞くと、「みんな楽しそうに仕事をしていた」と言います。
貧しいのはみんな同じで、働けば昨日より豊かになれる。
敗戦からの貧困の反動もあったと思いますが、庶民の消費意欲は上がっていき、物はバンバン売れます。放っておいても売上はバンバン伸びるので、仕事が楽しくて仕方がないわけです。
また、「企業戦士」という言葉が生まれたのもこの頃でした。
企業戦士とは、日本において企業のために粉骨砕身で働く勤め人であるサラリーマンのことです。終身雇用が成立していた当時の日本企業では、サラリーマンは一生の安定を約束されるかわりに会社に忠誠を誓い、定年まで身を粉にして働くことがあたりまえでした。
日本人独特の「勤勉」や「個より集団を重んじる」和の文化が、こういった企業文化が形成された要因にもなりました。
安定成長期からバブルへ
1973年の第四次中東戦争をきっかけに原油価格が高騰し、オイルショックに陥ったことで戦後初めて実質マイナス成長を経験し、高度経済成長時代は終焉しました。
しかし、その後も経済は悪化することなく安定成長期に入っていきます(1973年12月よりバブル崩壊の1991年2月まで)。また、高度経済成長時代の終わりは、第二次ベビーブームも終わらせ、1980年以後の日本は少子化の道を歩むことになりました。
そして、日本経済に大きな影響をおよぼす出来事が起こります。
プラザ合意です。
1985年9月25日、ニューヨークのプラザホテルに先進主要国(5ケ国)の蔵相と中央銀行総裁が集まり、外国為替市場でドル売りの協調介入を行って、日・英・仏・独の各国通貨を対ドルで一律10%程度切り上げることを決めたのです。
このプラザ合意は、日本のバブルを引き起こした原因の一つと言われています。事実、1986年の夏を過ぎた頃から、日本でバブルが起こり始めました。
まず、プラザ合意で急速に円高が進んだため、日本製品が海外で売れなくなり、、円高不況の懸念が起こりました。
そこで日本政府は景気を刺激するために金利を下げたのです。
1985年の公定歩合は相当な高金利で5%もあったのですが、政府はこれを短期間のうちに2.5%まで下げました。金利が下がれば、企業は銀行から資金を借りやすくなります。利益率も高くなるので、余剰の資産を新規投資などに回す余裕も出てきます。
この低金利政策が、銀行による貸し出し競争や過剰な不動産投資、証券投資の呼び水となり、バブル発生へとつながっていったのです。
また、外資参入によるオフィス不足もバブルの引き金になりました。
当時の日本ではさまざまな分野で規制緩和が進みつつあり、外国企業の日本進出が増え始めていました。
そこで問題になったのが、オフィス用の不動産が少ないということでした。積極的に日本進出を目論んでいたのは世界的に名の知れた投資銀行や商業銀行、保険会社、さらにそれらの企業をサポートする大手法律事務所や監査法人などです。当然、一流企業に相応しい、見栄えのよいオフィスを構えたいと思っていたのですが、それを満たす近代的なビルが、東京には圧倒的に不足していました。
そこでオフィス不足に目をつけた不動産会社が、新しいオフィスビルを建設しようとして用地の買収に走りだしたのです。
それから、都心の一等地で大規模なオフィスビル開発ラッシュが起こり、地価が上昇し始めました。プラザ合意からの円高対策のため、金利は安く、資金も市中に潤沢に供給されていたため、銀行も積極的に不動産投資に乗り出しました。
そうした動きは、瞬く間に地方都市にも広がりました。
オフィスビルだけでなく、マンション開発や住宅地の開発も熱を帯びていき、全国的に地価がどんどん上昇していきました。そして、不動産投資が転売目的の投機に変わっていき、ついにバブルが発生したのです。
バブル期の日本人は、驚異的な好景気に浮かれていました。
何しろ1989年12月29日の終値の株価は3万8915円、翌年の正月の多くの新聞・経済誌が「4万円直前」と見出しをかかげ、、日本全体はまさにお祭り状態でした。
実は、海外の人たちは「日本経済はバブルだ」とはっきり指摘していたらしいのですが、当時の日本人でバブルを疑う人はほとんどいませんでした。バブルで浮かれている当人たちは四六時中お酒でも飲んでいるような気分で、好景気が永遠に続くものだと錯覚していたのでしょう。
つい1〜2年前までは円高不況と言われていたのに、いつのまにか世の中は好景気に沸き、「金余り」という現象が起こっていました。
企業も有り余る金を、不動産、株式や債権などに投資しますが、それでも使いきれません。当然、社員にも還元しますから、サラリーマンの給与は放っておいてもどんどん上がっていきました。
投資に参入したのは企業だけではありません。
いま買わないと乗り遅れると思った多くの人たちも、バブルに流れ込んでいきました。評価価格が上がった自宅を担保にして、普通のサラリーマンや主婦がワンルームマンションやゴルフ会員権を買ったりしていました。
バブルは、日本人がこの世の春を謳歌した時代でした。
バブル崩壊と金融危機
しかし、日本の絶頂期は長くは続きませんでした。
バブル(bubble)とは泡。実体のない見せかけだけのもの。
日本の好景気は、実態経済とかけはなれたものだったのです。
政府が、日本で起こっている現象がバブルだと気づいたのは、土地の値段が異常な水準まで吊り上がった後のことでした。
地価の高騰が目に余るようになり、普通のサラリーマンが一生働いてもワンルームマンションのローンさえ返せないといった状況になったのです。富裕層と一般層の格差が大きく広がりました。
そこで政府は、今までの方針から一転して、景気引き締めに動きました。
それは
- 土地の短期的な売買を抑制するため、重加算税を土地取引に課した
- 金利の引き上げ
の2つです。
金利は、いったんは2.5%まで引き下げた公定歩合を、89年頃から段階的に6%まで引き上げました。
この2つの政策が、バブル崩壊の引き金となったのです。
バブル崩壊は、まず株式市場から始まりました。
株価のピークは1989年12月29日の終値3万8915円でしたが、年明けから相場が崩れ始めます。翌年3月には3万円割り込み、10月には2万1000円台を下回る水準まで売られていきました。
そして、株につられて土地の価格も急落していきます。
株価が急落しても、日本国内にはまだバブルの余韻が残っていて、状況を深刻に受け止めていた人はそれほど多くはなかったらしいです。
しかし、米国の金融業界では、日本経済がとんでもない状況に陥っていることを正しく認識している人達がいたのです。
「邦銀が100兆円規模の不良資産を抱えている」という噂が飛び交い、それは海を超えて日本にもやってきました。日本の金融業界は「まさか……」と誰もが思っていたのですが、結局、最終的にはそれくらいの金額の不良資産を処理しなければならなくなったのです。
バブル崩壊は日本経済に大きな懸念を与えましたが、もう一つの脅威がありました。
それが「金融ビッグバン」と呼ばれる一連の金融自由化の流れです。
まず一つ目が、外国為替法の改正です(1998年4月1日)。
これにより、外国企業が市場から円を調達して、日本の企業や不動産に投資するといったことが容易になりました。
そして2つ目は、銀行の自己資本比率規制(BIS規制)の強化です。
1998年4月までに、国際業務を行う銀行は8%以上、国内業務を行う銀行は4%以上の自己資本を積み増さないと、業務を継続できなくなるというルールが課せられました。
自己資本比率は資本(現在は純資産)÷資産で計算されますから、比率を上げるには資本を増やすか、資産を圧縮しなければなりません。
資本を増やすには利益を増やさなければなりませんが、そう簡単にはいきません。そこで、基準をクリアできそうになり銀行は、資産(貸し出し)の圧縮、つまり貸し渋りや貸し剥がしを行ったのです。
1997年の春先あたりから、とくに東京の都心部で、銀行の支店が貸し剥がしに動き出しました。そして、多くの企業が銀行から借入金の返済を迫られて、資金繰りに行き詰まり、ばたばたと倒産していったのです。
バブル崩壊からの金融ビッグバン――この2つによって、景気が本格的に悪化するという懸念が高まりました。
「100兆円の不良債権」に加えて「企業の倒産」が始まり、日本に受難の時期が始まったのです。
大手の企業の倒産は、「終身雇用」という神話を信じていた日本人に、大きなショックを与えました。
1997年の11月3日に準大手証券会社の三洋証券が会社更生法を申請し、17日には北海道拓殖銀行が経営破綻しました。
24日には当時の四大証券会社の一角である山一証券が自主廃業を発表します。そしてその翌週には、仙台の第二地銀、徳陽シティ銀行が破綻しました。
さらに翌年1998年には、日本長期信用銀行と日本債権信用銀行の経営が立ちゆかなくなり、公的資金の注入を受けて実質的に国有化されていきました。
金融危機により、企業が次々と倒産に追い込まれ、職を失った人が街に溢れました。
「一生の安定」を信じて会社に滅私奉公してきたのに、国の政策の影響で、簡単に会社が潰れてしまうのです。
人生設計を狂わされた人達の怒りと失望は、私達の想像を絶します。
以上、戦後の経済成長期から20世紀末までを、大雑把ではありますが説明してきました。
21世紀の日本と働き方
インターネットの発明は、農業革命、産業革命に続く第三の革命として、
世界を大きく変えました。
その影響力たるや凄まじいものがあります。
なぜなら、この発明により「モノ」「情報」「マネー」が低コストかつ高速で飛び交い、世界が一つの市場となる時代が到来したからです。
インターネットバブルは、1990年代後半から米国で起こりました。
インターネット関連のベンチャー企業が次々と登場し、華々しい成長を遂げていきました。
そして、それは日本にも飛び火します。
ここから、日本は本格的にグローバル経済のうねりの中に飲み込まれていきました。
しかし、2001年、米国のITバブルと同時多発テロにより、世界の金融市場は大混乱しました。
また、2008年の「サブプライム危機」からの「リーマンショック」は、世界中の金融市場、企業業績、各国経済に凄まじい衝撃を与えました。
それは日本も例外ではなく、米国発の金融危機により、多くの企業が倒産に追い込まれました。
そして2011年の東日本大震災と原発事故による放射能汚染……これはもう説明するまでもありません。
多くの人命を奪い、多大なる苦痛を与え、日本に負の遺産を残しました。
2000年代初頭からの約10年は、世界的にも、国内的にも、日本経済に衝撃を与える事件が怒涛のように押し寄せた時期でした。それでも、日本は立ち上がり、なんとか国を維持してきました。
しかし、戦後の復興から世界2位のGDPまで上り詰めた日本は、もはや成熟段階に入ったといえます。しかも少子高齢化と人口減少が将来待ち構えています。
つまり、右肩上がりの経済成長は今後期待できず、日本経済は緩やかに衰退していくと考えられます。
まとめ
私が今回、日本の経済史から感じたことは、「世の中に安定はない」ということです。それは大企業も中小企業も同じです。
団塊の世代の中には「大企業なら安心だ」という固定観念を今だに抱いている方もいます。しかし、それは幻想にすぎません。
確かに、大企業は中小企業より相対的に安定しています。
しかし、世界が一つの市場となった21世紀は、日本企業は世界の大企業との戦いに勝ち抜かなければなりません。
もはや日本で安穏としていることは許されず、欧米諸国の大企業と同じ土俵で戦わなければ生き残ることはできないのです。
実際、パナソニックなどの国内大手メーカーは、競合企業との市場争いで負けた場合、すぐに大規模なリストラを行っています。
大企業は調子が下向けば、簡単に人材を切り捨てます。冷酷と思うかもしれませんが、生き馬の目を抜く世界市場では、手段を選んではいられないのです。
21世紀の仕事観について言えることは「プロフェッショナルの時代」ではないでしょうか。
サラリーマンでも会社に依存せず、就いた仕事について責任を持ち、付加価値の高い仕事を提供できる人だけが生き残る時代、といえます。
そしてそれは、薬剤師にも当てはまります。
2003年以降の薬科大学の新設ラッシュ以来、薬剤師が将来過剰になることは、かなり高い確率で起こると予想されています。
「免許があっても職がない」という時代が到来するかもしれません。
そのとき選ばれる薬剤師であるかどうか――それを私達は心に留めながら、毎日の業務に取り組むべきではないでしょうか。
「参考書籍」
「日本経済の絶頂と衰退」
経営コンサルタントとして著名な 小宮一慶 氏の著書。
現在、日本で起こっている経済現象を「貿易」「GDP]「財政」「貯蓄」「金融危機」「円高」の観点から、具体的な数字を交えながら説明した本です。
とくに最終章の「過去30年の日本経済を早足で振り返る」では、1980年初頭から日本経済の絶頂期、バブル崩壊、その後の長く続く不景気が、一連のストーリーとして説明されており、とてもわかりやすいです。
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